祖母

信心深かった祖母は生前「トイレにはトイレの神様がいる」
というようなことをよく言う人でした。
祖父が戦争で亡くなってからは女手一つで四人の子供を育てあげ、
想像もつきませんが、相当苦労があったようです。
自分の息子たちが成人して経済的な心配がなくなっても、出かけるというと
高野山や四国のお遍路さんをしに行くといった感じでした。
私が小さなころはしょっちゅう山道をおんぶしてお墓参りに連れて行き、
歩けるくらいになると道すがら食用可能な野草、毒のある野草を教えてくれました。
近所の方に借りた荒れ地を耕し、畑でたくさんの野菜を作り近所に配ったり
草鞋を編んだり、土鍋で麦ごはんを炊いてくれました。
私は子供ながらにこれに自家製の麦みそをつけて食べるのが大好物でした。
夏は畑で育てた麦を煎って麦茶を沸かし、秋は芋ほりを手伝わされました。
祖母は長い髪をお団子に結い上げて着物を着ていましたが、歳をとると短髪、洋服になり、
決して贅沢をせず、下着は古くてもかなり頑張って大切に使う人でした。
土用のうなぎが食卓にのぼると、自分のうなぎを丸ごと私の茶碗にのせてくれ
自分はタレだけかかったご飯で食事していたことを今でもはっきり覚えています。
決して裕福な生活をしていたわけではありませんが、
ある日お寺さんから多額の寄付のお礼状が祖母に届き、両親はびっくりしたと聞きました。
私と弟がそろって大学で一人暮らしをしていたころも仕送りに苦労していたけど
おばあちゃんのお金だから、と何も言わなかった両親もすごいなと思いました。
戦争の遺族年金はかなり寄付で使われたようで、お礼状が何度かきていたようです。
優しく厳しかった祖母のことを、今でもたまに思い出します。
素敵な和服のおばあちゃんを見かけたとき、お味噌をつけるとき・・・
いつも私のそばで見守っていてくれていると信じています。

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